『海原』No.34(2021/12/1発行)誌面より
追悼 竹内義聿遺句抄
蟠りなく菜の花はまさに理性
ものづくりの町すっぽんは月へ飛んだ
交差路わが枕上そこから百済杭全
さっぱりしたもう怒ることはない五月
路地で繋がる地球朝顔咲き巡る
死ぬ順番に遅れて威張れずみそさざい
後からあとから直ぐに忘れて羅漢となり
何でやねんが癖で大阪赤とんぼ
本能を鍛え老人石蕗の花
路地暮らし路地を一歩も出ず旗日
雑炊と卒塔婆の路地に紙ヒコーキ
さるとりいばら身障者我が心安らぐ
オノマトペがすべて濃霧の吃音者
迷惑かけることが生き甲斐かも知れぬ
高架電車の地面に百済沈みゆき
老惨の我欲仏間のワンルーム
金網越しに蓮池も見てマラソン
昼寝から醒めて仏壇を見ている
生駒山麓原子力研究所二月小若江
穭田に不動明王立っている
(樽谷宗寬 ・抄出)
俳句に熱く、真摯であった人 谷口道子
大阪句会の大ベテラン、竹内義聿さんは二〇一二年頃から脚の具合を悪くされ、句会場へ来ることが困難になっておられました。以来、句会へは通信で参加されていたのですが、投句は締め切りの数日前に必ず届き、催促の必要が一度もないほど俳句に熱心で律儀な方でした。海原二〇二〇年一二月号に自由作品「介護認定・要支援2」が掲載された後、入院・休句となりました。もうそろそろ投句していただけるころと思っていた矢先、「思いがけずの急逝でした」と連絡を頂きました。
竹内さんは、八木三日女さんと親しく、三日女さん主宰の「花」(一九六八年一月創刊)にも所属しておられ、「Unicorn」(一九六八年五月創刊)の創刊同人に八木三日女さん、大橋嶺夫さん、酒井弘司さんとともに名を連ねておられます。海程では一九八三年に同人になっておられます。この経歴からも推察できるように俳句だけでなく、文学全般に造詣が深く、「バリバリの論客、理論家だった」「難しい議論を向けられ困った」などの思い出話が異口同音に出て来ました。
司馬遼太郎の熱心なファンでもあり、司馬遼太郎記念館でボランティア活動もしておられました。電動カートに乗られるようになってからは「今が一番楽しい」と東大阪周辺の取材を続けておられたそうです。郷土愛に満ちた眼差しで市井の景を沢山詠んでおられたことが強く印象に残っております。
最後に、竹内さんがご家族に託された俳句を紹介します。
リハビリはもうやめられませんまた明日
待望の先生を待つ春霞
久方の水羊羮で息をつく
功名が辻に引かれて空飛ぶ馬
始めの二句は入院加療中、あとの二句は退院後、高齢者住宅で作られたものとのこと。「長い入院生活はまさに紆余曲折でしたが、自分で歩いて取材することを夢見、最期までリハビリに励む父でした」「いつも怒ってばかりいる父でしたが、本当ににこやかに笑っているかのような顔でした」とご家族の言葉を紹介し、追悼の文とさせていただきます。
二〇二一年八月一九日逝去、享年八五歳。